
毎年紅葉を見に隣県の街を訪れた。
その街は車で一時間ほど離れているとはいえ、隣県でありお隣の市、この国の近代史に目を落とすと、わずか数ページ目をうろうろしている方々が滞在し決起した場所。
でもそんな場所全国津々浦々にいくらでもあるから、そんなに有名な訳でも無いから、穴場とも言える場所でもある。
20代の前半に小さな会社の社長に口説かれて、隣県だが一年半ほどお勤めした事がある。
基本は自宅勤務で打ち合わせや成果品の提出、お客様に会いに行く時に会社に出向き、週に2、3回出勤する。
その会社から国道一本渡ったエリアに武家屋敷やその頃の通りや塀、その歴史に携わった領主の別邸や数々のお寺があり、当時は県内や隣県から観光客が来るような場所なんて意識は無く、その会社を辞めて十年以上経って初めてここって「誰もが知るあの革命家やその昔お札に載っていた方がこの国の未来を語り、案じながらこの通りを闊歩していたのかも?」と、意外と近くにあり、いつでも来れる穴場スポットの価値に心躍った事もあった。
げんきんな物で特に家族を持ってからは毎年数回、紅葉の時期は必ずその街を訪れるようになり、景気が悪くなるまでには20度以上訪れた。
毎年同じ様に見える紅葉も、訪れたタイミングやその年の気象条件によって同じものはないのだけど、それが「稀」なのではなく、観光客の賑わいや自分自身や心境、同行者の顔ぶれや関係性、歩いた道や寄ったお店、味わった物が全く同じなんて事は奇跡に近く、その日のお天気や気温も同時に自分の記憶に刻まれる事で、何度訪れてもその時が唯一の経験だという事。
数年程前、しばらく足が遠のいていたその街に両親と子供達と訪れた。
変な物で子供の頃から関係が決して良好でも無かった親父に「紅葉でも見せるか」と思い、子供達はそれぞれカメラを抱え、お気に入りの穴場に連れて行った。
しかし親父はその時にはもう、紅葉と緑鮮やかな山間のお寺に徒歩で歩く力は無く、おまけに紅葉を鑑賞するなんて趣味も無い親父に、やはりモヤモヤしながらもしばらく訪れていなかった時間の尊さを嫌と言うほど感じた。
そして今、ほとんど動けないながらも親父は生きている、しかし私があまり動けない体となり「ああ、今あの街を訪れても、昔なじみのコースを二割も動けるだろうか・・・」、意外と近く昼過ぎからでも訪れて夜には帰ってこれる場所なのに、「あの紅葉をあと何度見れるのだろうか・・・」とふと思う。
「人が生きて歳を取るという事は、こんな当たり前で稀な感情と共に時を過ごすって事なのかな?」「みんなそうだよ」と言うのだとしたら、私は意外に弱い人間であるのかも知れない。

